スワヒリ語が私にもたらすものとは。
今日も聞かれた。
「君はスワヒリ語を学んで、日本で先生になるのかい?」
「ならないよ。」
「じゃあどうしてスワヒリ語を学んでいるの?」
「ん〜、ただ知りたいからかな。」
もう何十回とした会話。
タンザニアの学生たちは多くの場合「何か」になるために学ぶ。
弁護士になるために法律を学び、
医者になるために医学を学び、
中国人と仕事をするであろう自分を見据えて中国語を学ぶのだ。
じゃあ私は、どうしてスワヒリ語を学んでいるのだろう。
先生になる?
いや、学者になってまでこの言語を追い続ける自分が見えない。
通訳になる?
英語もそこそこ理解できるこの人たちにとってスワヒリ語と日本語を通訳する人間はほぼ必要ないだろう。
私は、私が将来この言語を使って仕事をしている未来が見えていない。
アフリカでビジネスをしたいとも思わないし、
自分の手で貧困を解決したいとも思わないし、
この国の良さを多くの人、特に日本人に伝えたいとは思うが、
仕事にまでしてやろうとはさらさら思っていない。
私は日本で普通に暮らしたいし、
普通に結婚して、普通に子供を産んで、
普通に死にたい。
「普通」が何なのかはわからないけど。
そんな「普通」を追い求める自分がいる一方で、
相変わらず「人と違うこと」「特別であること」を求めている自分がいる。
特別になってみたいという思いは、
きっと私がここへ来る理由の1つになっていたはずだ。
ただ、特別には、もうなれた。
タンザニアに一年間留学する。
それだけで、周りから見れば全然普通じゃない。
想定外だったのは、思ったよりスワヒリ語という言語自体を好きになってしまったこと。
街から聞こえるスワヒリ語が気になって仕方ない。
自分の知識と異なるスワヒリ語と出会うと嬉しくて仕方ない。
でも、やっぱり、
これを仕事にしようとは、思わない。
同世代の人たちがちょうど就活をしている。
みんな忙しそうだ。
私は、来年、就活をする。
リクルートスーツを着て、自分の経験や自分の特徴を目一杯誇張してアピールする。
全く想像がつかない。
考えすぎると疲れるので、考えるのをやめた。