10ヶ月間タンザニアで暮らした女子大生が「中国人」と呼ばれて考えたこと。
中国の援助によって建てられたダルエスサラーム大学の新図書館
Mambo!
こんにちは!ルナです!
今回は約半年前に私が書いた中国人差別に関する記事の完成版です。半年前の私の記事を読みたいという方は、こちらへ。
それでは、タンザニアに来てから私が向き合ってきた「差別」についてお話ししたいと思います。
このテーマを文章にするのは、ものすごく難しいです。このことに対しては様々な意見があります。知っています。この10ヶ月間、自分から積極的にこの話を様々な人としてきたつもりです。
だからこそ、これまで私がこの差別をどんな風に捉え、考えてきたか、お話ししたいと思います。ちゃんと、言葉にしておきたいと思います。
初めてのタンザニア旅行
大学2年の夏、私は友人とタンザニアをバックパッカーとして1ヶ月間旅しました。旅の途中、歩いていると、
「Mchina!(中国人!)」
と声をかけられることが度々ありました。海外旅行経験はあっても、それまで「中国人!」なんて言われたことがなかったので、少し戸惑いましたが、
「確かに日本人と中国人って似てるし、私たちもその人がアフリカのどこの出身かなんて見分けつかないもんな〜」ぐらいにしか思っていませんでした。
ダルエスサラーム大学へ留学
10ヶ月前、私の留学は始まりました。私は町を歩いて見て回ることが好きなので、留学当初からよく一人で出かけていました。町を歩いていると、こんな声が聞こえてきます。
「ムチナ!(中国人!)」
「チナ!(中国!)」
「ニーハオ!」
「フンハ!(おそらくカンフーのマネ)」
「(半笑いで中国語のマネをしている)」
アフリカ大陸への進出をぐんぐん進めている中国。タンザニアにも大勢の中国人労働者がいます。アジア人のほとんどは中国人だと言っても過言ではないくらい。すると、見た目の似ている私たちアジア人は彼らにとってみーんな「中国人」になってしまうのです。
しかし、留学が始まり立てでワクワクしている私は、中国人だと間違われていることよりも、どんな言葉であれ、みんなが話しかけてきてくれることに喜びを感じていました。
同じことが繰り返される
留学開始後1ヶ月もすると、私はどんどん「中国人」と間違えられることがめんどくさくなってきました。と同時に、そのことにイライラするようになってきたのです。
町を歩く時だけでなく、大学内で知らない人とすれ違う時も、「中国人」とか「ニーハオ」って言われるし、「どこ出身なの?」とも聞かず、いきなり「中国語を教えてよ!」とか「中国に連れてってよ!」とか言ってくる。
その度に「私は中国人じゃなくて日本人だよ」と言わないといけなくて、1日に10回も20回もそんなことをしていると、さすがにその会話に疲れてくるのです。
自分に余裕がある時はまだいいのですが、疲れていたり、少しでもイライラしたりしている時にそれを言われると、もうほんっとに腹が立って、聞こえないように舌打ちしまくってました(笑)
スワヒリ語に慣れてくると、楽しい会話ができるようになると同時に、聞きたくないような会話まで聞こえるようになってしまいます。
後ろを歩いている人たちが、「この中国人、タンザニア人みたいな服装してるね」と言っていたり、中国語のマネをしたりしているのが、嫌という程鮮明に聞こえるようになってくる。
その度に「私は日本人だよ!」と言って、そしたら、「君たちは似てるからね」とか「どうして君たちは似てるの?」とか言ってくるのです。知らねーわそんなの!!
似てるからって中国人だって決めつけていいわけ?まずは、どこ出身ですか?って聞くのが筋でしょーが!
どうして嫌なんだろう?
私は中国人と呼ばれることについて、ちゃんと考えてみることにしました。私はどうして中国人と呼ばれるのが嫌なのか。
私は日本人で、中国人ではないから。もちろんそれは1つの理由です。
でも、なんとなく自分の中で、「あのマナーの悪い中国人ではなくて、私はスワヒリ語も喋れる君たちに寄り添っている日本人ですよ」みたいな気持ちがあるような、ないような。
え、だとしたら、私も中国人を差別してないか?いや、自分のアイデンティティを守るために怒ってるだけなのか?
なぜ彼らはアジア人をみんな中国人と決めつけて呼ぶのだろう?
自分の気持ちだけではなく、タンザニア人たちの立場になって考えてみよう。
日本という国をそもそも知らないのかな?いや、そんなことはない。「日本人だよ。」って訂正したらちゃんと分かってくれるもん。
ただ単に構って欲しいだけで悪意はないのかな。悪意がないなら、それが無知から来るものなら、私がどんなに嫌な思いをしていたとしても、彼らを責めることはできないのかな?
嫌な思いをしている人がいるのに、「知らなかったです」って言ったら許されるものなの?例えば教育水準が低いことが無知の原因だったとして、貧しさがさらにその原因だとするなら、彼らに罪はないのですか?貧しい人は差別をしてもいいの?
自分は日本でどうだっただろう?
スワヒリ語を学ぶまでは、「タンザニア人」ではなく、「アフリカ人」としてアフリカで暮らす人達を一括りにして見てた。
お笑い芸人が中国人のマネするの見て笑ってた。中国人見たら「中国人ってさ〜」って何も考えずに近くで話してた。
あの人たちが日本語分からない前提で色々言ってたけど、もしかしたら日本語知ってたのかもしれないな。傷つけてたのかもしれないな。
やばい、私もタンザニア人とかわらないことしてるじゃん。
もう、いいや、、
この辺りまで考えると、私は頭が痛くなってきました。考えれば考えるほど、どんな風にこのことと向き合えばいいのか分からなくなるし、タンザニア在住の日本人の方たちにどうしているのか聞いてみると、大概の対策法は、「無視」。
「いちいち気にしていたらキリがないから、気にしない方がいいよ。」そんな声が多く聞かれました。
私もだんだんそんな風に思えてきて、「気にしないようにしよう、もうあきらめよう、考えない方が楽だ。」そう思うようになっていきました。
ケニア旅行
3月、私はケニアに旅行に行きました。ケニア人たちも私を中国人だと決めつけて声をかけてくることが多かったのと同時に、ケニアでは、「チンチョンチャン」という中国人差別用語を多くの人が私に向かって言ってきました。
少し歩けば道から「チンチョン」バスから「チンチョン」お店から「チンチョン」
多い日だと大袈裟じゃなくて、100回ぐらいは言われていたと思います。このチンチョン猛攻撃によって、私はもう一度中国人差別と向き合うようになります。
やっぱり、おかしい。
教育が足りていない、それが差別用語だと分からないで使ってることもある、ただ構って欲しいだけ、、、
それでも、差別は差別だよね?
チンチョンチャンという差別用語に限らず、日本人や韓国人など他にもアジア人がいることが分かっていて、「中国人」って決めつけて呼んでくるって、それ自体すごく失礼なことだよね?
私も日本でたくさんの外国人を傷つけていたかもしれない、私も「差別する側」だったかもしれない、だけど、だからって、「差別される側」になっても仕方ないっていう諦めは、必要ないよね?
おかしい、やっぱり、おかしい!
他の国ではどうだろう?
私は、タンザニアとケニアにおける中国人差別、さらに、ツイッターで見ているアフリカ界隈の人たちの中国人差別に関する実情しか知りませんでした。
そこで私は、インスタグラムのアンケートを利用して、留学中の友人や知り合いに、中国人差別またはアジア人差別を受けたことがあるかを聞いてみました。
すると、アフリカに限らず、アメリカやヨーロッパなど様々な国で暮らす人達から、そういった差別を受けたことがある、という回答が得られました。もちろん、差別されていると感じたことがないと答えた人もいました。
つまり、中国人差別、アジア人差別は、アフリカだけでなく、世界中に存在するのです。
どうして中国人が差別されるんだろう?
タンザニアでよく聞かれるのは、「中国人たちは英語もスワヒリ語もしゃべれないんだ」という声。実際、語学を十分に学んでいないのに、中国からアフリカに働きに来ている人は多く、現地の言葉も英語も全く話せないという人がいることは事実です。それはタンザニア人が中国人たちをバカにする一つの原因となっているでしょう。
そして、中国人たちがアフリカのビジネスやインフラ整備などに関わる時、現地の人を雇用しないことが多いことも事実。それを、「俺たちの雇用が奪われている」と捉える人もいます。その中国という国家に対する不満や嫌悪感が、個人に向けられることがある。
中国人たち自身は声を上げているんだろうか?
人口が多くて、差別に直面している人も多いし、差別がいけないことだなんて、みんな分かっているのに、どうしてこの差別は見過ごされているんだろう?中国人が中国人って呼ばれてもそんなに嫌じゃないのかもしれないけど、「チンチョンチャン」は明らかに差別用語だし、明らかに悪意を持って言ってきてる人も間違いなくいるよね、、アフリカ人に「ブラックモンキー」って言ってるのと一緒だよ??
日本人である私がこの差別に関して声をあげるとすればどんな方法があるんだろう?そもそも、これは中国人に対する差別なのか、アジア人全般に対する差別なのかどっち?
半年前の私
半年前の私は、当時の記事をこんな風にまとめていました。
世界には、さまざまな種類の差別があります。白人から黒人、黒人からアジア人、アジア人からアジア人のように、肌の色や国籍に関する差別。LGBTや障がい者など、マイノリティに対する差別。
悪意のある差別もあれば、無意識の差別もあります。
誰もが「差別される側」になる可能性があり、誰もが「差別する側」になる可能性がある。
私はこれまで日本で生活していて、差別をされていると感じたことがありませんでした。きっとずっと、無意識に差別する側でした。
でも、タンザニアに来て、外国人になって、マイノリティになって、差別を経験しました。差別される側になって初めて、私はこのことを深く考えるようになりました。でも、今の私にはまだ、このこととどう向き合うべきなのか、答えが見つかっていません。
半年後、今の私
さて、あの記事を書いてから、はや半年。その後も私は本気で何かムーブメントを起こしてやろうと画策したりしていた時もあったし、私は言語学をやっているので、スワヒリ語における「呼称」について調べてみたりしたこともありました。
今、私は「中国人」と呼ばれた時、どんな風に対応しているでしょう。
正直に言いますね。慣れ過ぎてしまったんです。中国人と呼ばれることに。いちいち感じていたあのイライラも、憤りも全部綺麗に静まってしまいました。
中国人だと間違われていたら、訂正はします。でも、前みたいにお説教したり、なんでその言葉を選んだのか聞いてみたりすることはなくなりました。
慣れって怖いですね。こうやって、みんなが慣れて諦めて、この差別はなくならないのでしょうか。
ただ一つ、どんなに慣れても、日本に帰国して私がマジョリティになっても、忘れたくないのは、自分も差別の加害者であり得るということです。
差別が悪いことだって、みんな知ってます。だから、自分は差別なんかしてません。ってみんな思ってる。でも、よくよく考えてみてください。
ありますよね。目の前にいる人の話も聞かずに、外見だけでなにかを決めつけてしまうこと。よく知らないのに、自分のイメージだけで物事を判断してしまうこと。
みーんなあります。誰だってあります。そこが人間の愚かなところなんです。でも、自分が差別してしまっていたことに気づくことで、その差別は一つなくなるでしょう。だって差別がいけないことだって、みんな知っているから。
差別をなくすことの第一歩は、自分が「差別する側」かもしれないということを自覚すること。日本に帰っても、この意識をちゃんと持っているようにしたいです。
そして、世界の差別についてまで考えてしまうような機会を与えてくれたこのタンザニアという国に感謝したいと思います。嫌な思いもたくさんしたけれど、悪い人ばかりじゃないこと、知ってます。
私に代わって「この子は中国人じゃなくて日本人だよ!むしろスワヒリ人だよ!」って言ってくれたタンザニア人もいっぱいいました。だから私はタンザニア人のこと、そこそこ好きです。大好きとは言わないけど。笑
アサンテ!タンザニア!
追記: 私はこの記事で「差別」という言葉を選択的に使っています。いろんな意見があると思います。聞かせてください。話しましょう。ディスカッションしたいです!